― 数回に渡ってマサホ議員の生い立ちから現在に至るまでインタビューさせていただきます。
ではまず幼少時代や小・中・高校時代の話をきかせてください。当時の思い出や熱中してたことなどありますか?
マサホ議員 では生まれた頃から話しましょう。
ぼくの生まれたのは、1949年昭和24年、戦争が終わってちょっと落ち着いてきた時代かな。ベビーブーム、団塊の世代。今の事務所があるところが、ぼくの生まれ育ったところ。社家がたくさんあった。
ぼくは鈴木家14代目。我が家も大きな敷地で、土蔵もあったし「おくどさん(かまど)」もあった。
親父は、京大の職員。兄弟は男の3人。ぼくは長男。おばあちゃん子やった。
― 幼稚園、小学校時代にどんな思い出がありますか?
マサホ議員 幼稚園は、今は「国際学生の家」になっているところにあったキリスト教の「錦林幼稚園」。
小学校は第四錦林小学校。今では2クラスしかないけれど、なんと一クラス50人はいたと思うけど7クラスだよ。「芋の子を洗う」というけど、グランドなんかもうごちゃごちゃ。
吉田山が遊び場で、当時はいまほど樹が生えていなくてソリ遊びや基地を作って遊んだし、三角ベースというソフトボールで遊んだり。
相撲は若乃花と栃錦の時代。
プロ野球は、長嶋選手がデビューしたのはぼくが3年生の頃か?
少年マガジンが発売されたのもその頃か。マンガも読み始めたし、ちょうどその頃、皇太子のご成婚ということでテレビが普及し始めた。それまでは近所の家にテレビを見に行ったよ。電話は呼び出し!まあまあ勉強はできた方かな。
6年生の時の担任のゴジラというあだ名の山内光夫先生はみんなが大好きやった。大文字山などよく連れて行ってもらったなあ。
野球盤でも遊んだのを覚えてるよ。暖房は石炭ストーブだったよ。
給食はなんでも食べたけど脱脂粉乳は鼻をつまんで飲んでた。また鯨がよく出てたね。
― 時代を感じますね。では中学時代は?
マサホ議員 中学は家から走って1分。近衛中学校。なんと一学年17クラス。プレハブ教室。夏は暑い暑い。地歴部とかに入ってたかな?
1963年、アメリカから初めてテレビ中継があるということでテレビを見ていたらケネディー大統領の暗殺事件。もう驚いた。
まあまあ勉強したと思うけど、英語は嫌いやった。生徒会の役もしてたかな。じいさんが亡くなってから、おばあちゃんと一緒に暮らしたこともあった。あんまり中学の時の鮮明な記憶はないなあ。
― 高校時代はどうでしたか?
マサホ議員 1964年、東京オリンピックの年、新幹線が開通した時か、鴨沂高校に入学する。
この頃は地域制というので、公立高校は鴨沂に決まっていた。まあまあの成績だったら入れたし。鴨沂は自由の学風が伝統的にあって、制服はないし楽しかった。
クラブは山岳部。北山に北山荘という三高時代からの山小屋があって、新入生歓迎コンパで酒を飲まされたよ!あれから飲みづづけてるね。
生徒自治会活動も熱心にしたよ。3年の時の「仰げば尊し」という、山車をみんなで作って紫野グランドまで行進する3年のときの大イベント!もう最高やね!ガールフレンドもいたし、御所でよくデートもした。ほろ苦い思い出はたくさんあるよ。
そうそう、ジュリー、沢田研二は同級生や。クラスは違ったけれど空手部やったか、また漢文のクラスかなにかで一緒になった。
確か彼は修学旅行のあと退学して音楽の道に行った。
それで、社会のこと。ちょうどベトナム戦争が激しくなってくるとき、アメリカの北爆もあり、南ベトナムの弾圧もひどかった。
そのころかな、ベトナムに平和を!集会にも初めて行った。
鴨沂高校の3年間は充実してたなあ。
でも、受験勉強もほとんどしてないし、大学は受かるわけがなし。もちろん一浪(ひとなみ)。近畿予備校に通い、途中からは部屋にこもって猛勉強した。イントレピッド号から4人の脱走米兵が現れて、スエーデンに亡命したというニュースは印象に残ってるよ。
― 一浪して大学に入ったのですね。今振り返ってどんな大学生活でしたか?「ベ平連」運動に参加されていたとか?
マサホ議員 そして大学時代のこと。話せば長くなるよ。何せ大学を卒業するのに9年かかっているしね。
4つほど受けた大学で同志社の文学部文化学科文化史西洋史専攻にかろうじて合格した。入学式ではヘルメットを被った学生が演説してたよ。まさにベトナム反戦、学園闘争の始まりの頃。
山岳部に入ったが、トレーニングがきつくて、またロッククライミングの練習でよく落ちかけて、こらアカン。夏前に辞めた。
入学して、2か月か、ヒッチハイクで同級生と東京に行って、作家の小田実さんがリーダーのベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)
のデモに参加。銀座をデモしたよ。昂奮したね。それからはベ平連運動に邁進!
8月には「反戦と変革のための国際会議」が国際会館であった。事務局として聖護院おおぎや旅館に住み込みや。
京大、同志社、立命などバリケードストなどあり、百万遍で火炎瓶が投げられたり騒然とし始めた。
デモばかりしていたなあ。
そして脱走米兵に出会う。我が家の近くに下宿をさせてぼくが世話役みたいなもの。銭湯にいったり飲みに行ったりもした。そのポールことダニエル・デニスは1969年、近衛広場で逮捕されて、3日間に渡って川端署前で抗議行動。彼は米軍に引き渡されて、軍法会議にかけられたんやろね。その後の彼の消息は知らないが、その後も数人の反戦米兵を行動を共にしたこともあったよ。
20歳の時。わが人生の原点。
またその夏、もちろん復帰前の沖縄にワークキャンプで行った。B52の爆撃機が飛び立つ嘉手納基地やコザの街は衝撃的だった。
「思想の科学」という雑誌に「20歳・夏・沖縄紀行」と題して、原稿用紙に百枚ほど書いた。あの頃は、物書きになりたい夢を見てた。
そして70年、大阪万博の年。キューバにサトウキビ刈りに行った。休学して3か月、50人ほどのメンバーで共同生活。世界からキューバ革命の応援に青年たちが集った。カストロ首相の演説は凄かった。
― 反戦活動をしていたんですね。
マサホ議員 帰国して、旅費を返すために大丸の配達のアルバイトもしたよ。
71年かな、海兵隊基地がある岩国にも反戦活動で行くようになり、凧を揚げて戦闘機を止めようなどもした。
そして72年には反戦喫茶「ほびっと」開店。亡くなったけれど当時のマスター、中川六平君が書いた「戦争を止めた喫茶店ほびっと」(講談社刊)には、ぼくの名前が実名で出てくるよ。
その「ほびっと」で出会ったのがカミサン。74年で結婚。
学生結婚。一年間、上賀茂で住み込みで「楽」という喫茶店でやとわれマスター。そして75年から烏丸今出川の「駱駝館という喫茶店でもマスターをした。
喫茶店の仕事をしながら大学に通うという生活。そしてようやく77年、9年目にして卒業。卒業論文は「プエルトリコ史」。カリブ海に浮かぶ島の話。アメリカの植民地だった。
卒論を書き上げたころに長男が生まれた。で、新聞学科の大学院を受験したが、不合格。思えば、もし受かってたら人生変わってたかな?
― へえ?27歳で卒業ですか?波瀾万丈でしたね。それから選挙に出馬ですか?
マサホ議員 卒業して、喫茶店の仕事も面白くなくなって、京都イングリッシュセンターという英会話学校でちょっと仕事をした。その時は。、京都の留学生にインタビューしたりアンケートをしたり、シンポジウムを開催したり、京都の国際化を考えるようになったよ。
そして、他府県で、ベ平連の仲間が議員になり始めていたので、京都でぼくも出ようやないかと決意して、生まれ育ったまちで平和を訴えよう、市政を市民の手にと、30歳の時、1979年春に市議選初挑戦!
髭を生やしたままで、いやあ楽しい選挙でした。肩書は「市民運動家」。かっこええでしょ。
「ネコもネズミも怒ってる」という選挙ドキュメントの冊子もできた。ラジオの特別番組が流れたり、新聞にもたくさん書いてもらった。
落選後「月刊地域闘争」という雑誌の編集をしたりもして、4年後に、また挑戦。ちょっと内輪もめもありまた落選。
それから4年近く中央市場で働き、また大丸の配達もしながら、社会党の推薦も得て、3度目の挑戦で初当選!
1987年昭和62年のこと。38歳でした。
小学校修学旅行 伊勢神宮 (最後列右から2番目) |
林間学校で天橋立 (前列右から6番目) |